晴れた日のおさんぽ

好きなことについていろいろ記録するブログです。

牧野富太郎について

先日、飛行機に乗っていて、『翼の王国』という雑誌を読んでいたら、牧野富太郎の特集がありました。
牧野富太郎については、小学校の頃に伝記を読んだことがあり、少し知っていましたが、大人になった今読んでみると、新たな発見が多くありました。
その特集は、美しい写真が多く使われていてとてもよかったです。まず印象的だったのが、森の中、一面のバイカオウレンの花畑でした。牧野富太郎の見ていた世界についてイメージが湧き、どんどん引き込まれました。
牧野富太郎は裕福な家に生まれましたが、私財を投じて植物を採集したり、植物に関する書籍を買い漁ったりしたために、裕福だった家が借金まみれになったそうです。
一般の人からみたら、バカなことをしてるように思われそうですが、学者というのはそういうものなのかなと思いました。後先考えず、すべてをそれに懸けられるというか…そういう星の下に生まれてしまった人は一定数いて、そうでなければ学者になれないのではないかと考えさせられました。
学者といっても、牧野富太郎は当時の多くの学者のように、東大の予科からまっすぐ上がっていって学者になったのではなく、ほぼ独学で研究をして、それが認められて東大の研究室に出入りするようになったようです。

雑誌の中で引用されていた、牧野富太郎の次のような言葉が印象的でした。

「私は生まれながらに草木が好きであった。5、6歳時分から町の上の山へ行き、草木を相手に遊ぶのが一番楽しかった。私は幼い時から草木が一番の親友であったのである。
後に私が植物の学問に身を入れて、少しも飽くことを知らなかったのは、草木がこんなにも好きであったからです。」(『牧野富太郎自叙伝』)

牧野富太郎は他の何も目に入らず、植物に懸けられる人だったのだなと思いました。
 
ところで、この特集でもうひとつ発見したことは、『本草綱目』という中国の本が、前近代の日本に大きな影響力を持っていたことです。牧野富太郎も、日本の近代植物学の基礎を作った人物ですが、『本草綱目』の影響を受けており、いくつものバージョンの『本草綱目』を持っていたようです。つまり日本では本草学から植物学が成立したのかもしれません。
考えてみれば、医学においても、日本でははじめ漢方医が大きな力を持っていて、それから蘭学が広まり、近代医学になっていったという歴史があると思います。(たぶん)
日本の外国の文化を取り入れて発展させていく一面が、こういうところに表れているような気もします。